清光寺の歴史
安照山太子院清光寺
当山は正式名称を安照山太子院清光寺と号し、
室町時代後期後柏原天皇の世、時の将軍は第十一代足利義澄、戦国時代の幕開け、北条早雲が台頭し北条家が関東に勢力を拡大する頃(織田信長が生まれる32年前、鉄砲種子島に伝来する40年前のこと)
室町時代後期の文亀2年(1502年)乗蓮社徳譽上人照阿清光順応大和尚が開山されたと伝えられております。
現在寺院に残る唯一の古文書『総修復発願之由致』には、第十三世覚譽源恕和尚の代に庫裡の造営、第二十五世穏譽霊泉和尚の代に本堂建立と記録されております。
History of Ansho-zan Taishi-in Seiko-ji
Our temple has been established in 1502 by the priest named "Jouren-ja Tokuyo-shounin Sho-a Seiko Junno Daikasho".
It was the end of Muromachi era, the Japanese Emperor was Gokashiwabara-Tennou and the Shougun was Ashikaga Yoshizumi the 11th of Muromachi shogunate.
It was also the beginning of the Age of Civil Wars in Japan.
In Kanto area, the Daimyo Houjo Souun started to raise his head.
There is only an old document has been left at this temple titled "Soushuhuku Hotsugan no Yuchi".
It explains that the past main hall and priest's living space had built around Edo era but more detailed history is still unknown.
清光寺 本堂
奪衣婆(だつえば)像
またの名を「しょうづかのお婆さん」とも言います。
「しょうづか」の名は「葬頭河(そうづか)」に由来し、三途の河のことであります。すなわち、亡者が三途の河原にさしかかると、その川辺に鬼婆と鬼翁が居り、鬼婆が亡者の衣を脱がせて鬼翁に渡します。鬼翁はその衣を衣領樹という木の枝に懸け、枝のしなり具合によって亡者の罪の重さを測ると言われております。この衣を脱がせる鬼婆が奪衣婆で、衣を木の枝に懸ける鬼翁が懸衣翁(けんねおう)と呼ばれております。当寺にある奪衣婆の像は等身大の木造で作られており、室町時代後期に作られたと推定されております。
その相貌は老鬼女だけに恐ろしい顔立ちで、口は耳元まで裂け、大きく見開いた両眼は「車輪の如し」と形容され、その手は亡者からはぎ取った衣を持つ格好をしております。
奪衣婆については『地蔵菩薩発心因縁十王経』という経典に詳しく述べられておりますが、『浄土見聞集』という書物によると、亡者が27日を迎えたときに三途の河原で生前の善悪がこの鬼婆と鬼翁によって測られ、地獄へ落ちるか極楽に生まれるかの判断の一つとなるとされております。
清光寺の奪衣婆像
長島高城跡
清光寺が開かれた室町時代の長島の地には、太日河(ふといがわ、現在の江戸川)の河口にあたり、国府の湊として賑わっていたと思われます。その後長島が戦略地点として太田新六郎康資の所領となったことが北条氏の記録帳簿である『小田原衆所領役帳』の中に記されております。
一 太田新六郎知行 弐貫文 長島高城
江戸時代の寛延2年(1749年)に青山某によって著された『葛飾記』に「此所は昔、長島殿と申す城主の城下の湊のよし」という記述が見られます。また『新編武蔵風土記稿』に小字として馬場宿、堂屋敷、東の割などの名が周辺にあり、役帳の中の「長島高城」という記述が長島に高城という城があったという説の根拠となっております。
現在も清光寺の周りに城にちなむ小字として表門(大門)・裏門・官所・馬場・堂屋敷などの名が残っております。これらの小字からおおよその城の位置を推定していくと、まさに清光寺のある場所がその推定所在地と重なります。
青柳三酉筆子塚
(あおやぎさんゆうふでこづか)
筆子塚とは江戸時代の手習塾(寺子屋)の教え子(筆子)たちが共同して、生前の師匠の徳や恩を石に刻んで建立した碑のことです。戦国時代が終わり、徳川による安定した世の中になると江戸の町は急速に発展し、特に江戸から近い距離にあった葛西の地はいち早く江戸文化の影響を受け、各地域の有力者の教養はかなり高かったものと思われます。手習塾は従来寺子屋とよばれてきましたが、学問塾としての性格の寺子屋に対して、主に習字を中心とした私的な塾でした。
当寺の筆子塚は青柳三酉筆子塚とよばれ、過去帳によると青柳軒譲教三酉信士、明治12年9月29日、青柳三酉、68歳、村方手跡教師とあります。また柳枝軒教道盈貴信士、明治14年9月4日、青柳盈貴、52歳、長島手習教師とあります。この長島の地にあって江戸時代の庶民に文字学習を中心にその教育水準を高める上で重要な役割を果たしたものと思われます。
この青柳三酉筆子塚は平成4年2月に江戸川区登録有形文化財に指定されております。